2023/12/16土

 

・やっと自分の時間

この項は正確には15日の夜に書いている。嫁の母が家に泊まりにきた。第一日の夜である。接しづらい訳でも、気まずい訳でもない。ただ、気を遣う。

焼き鳥屋で晩ご飯をたべた。最近グランツーリスモで遊んでいる妻が「すごくリアルな車のゲームがあるんだ」とお義母さんに話していた。帰ってきて、PS4をつける。首都高そっくりのコースを走るところを「見てみて、すごいリアルでしょ?」と妻が聞く。さすがに笑ってしまった。一体私たちは何をしているんだ?

就寝前のごく僅かな時間だが、ゆっくりとブログを書く暇が与えられたことに感謝である。僕は、自分で好きなように使える時間をどれだけ持てるか、というのが一種の幸せの判定になっている。たとえ1日中ダラダラ過ごしても、そう過ごそうと思ってそれが完遂できれば最高だ。世間的には楽しいと思われていること、たとえば繁華街に遊びに出たり、ショッピングセンターで買い物したり、レストランでおいしいものを食べたり…ということでも、「家でゆっくりしたい」が勝つと、とたんに全景が灰色化する。そしてたいていの娯楽は、家でゆっくりするに勝てる魅力を備えていない。朝から晩まで身体を拘束され、好き勝手な動作が制限されるという意味では、余暇に強いられるザ・休日的な行動はすべて労働になる。それも金を稼ぐどころか、減らすためにある労働だ。

図書館で借りた本をダラダラ読んで寝落ちして〜を繰り返す休日のなにが悪いんだろう。心の底からそうしたいと思っているがそんなこと言えない。だから妻が友人と遊びにいく休日はまさに神が恵んでくれた安息日の喜びがある。なるほど、結婚とは自由と引き換えに、くそったれな世間体を得るだけのしけた取引というわけだ。おまけに責任だけはやたらと重くなる。家庭科で習わなかったぜ、そんなこと。

自分の時間。ひとりの時間。あれしようこれしようと考えているが、いざその時間がくると、事前の目標は一切忘れて無為に過ごしてしまう。そしてまた身体の自由が奪われたときに甘美なひとり時間を夢想する。

 

・朝起きた

朝起きた。この当たり前でバカみたいな事象が美しい。なんとなれば僕はソファの上でイモムシみたいになって朝を迎えたからである。妻の母が泊まりに来ている。この事情は前述の通り。妻は絶賛風邪っぴき中で、咳が出るタイプのようで、音に悩まされた僕は昨日から寝不足であった。ただでさえ彼女のイビキで寝られなくなるときがあるのに、そこに輪をかけて、だ。

耳栓のアマゾンレビューによく「旦那のイビキが気にならなくなりました」とあるが、耳栓をしたって聞こえるし、なんなら耳栓をしてもなお聞こえる音に敏感になって余計に寝づらくなるパターンだってある。昨日ばかりは耳栓をしても、その上からイヤーマフをしても貫通してくるイビキ、咳の音に参ってしまい、寝室を飛び出し、キャンプグッズの寝袋を引っ張り出してリビングのソファで寝たのであった。これまでもたびたびソファで寝ている。初めは首が痛くなったり背中をつったりしたが、いまでは朝まで熟睡できるようになった。ここが僕の宮殿だ。

 

・コインランドリーに逃げ込む

天気悪く、コインランドリーで乾燥機をかける必要がある。その30分間、家を出て外で過ごせるチャンスとあらば、この雑用に立候補しない手はない。そうして家を出て、ちくま文学の森「賭けと人生」を読みながら、暇をつぶしている。いや、この暇を味わっている。本を読んでブログを書くには、30分はあまりに短い。

義母の誕生日を祝った。ヴィタメールのケーキを食べた。妻と義母は苺のショートケーキ、僕はチョコだ。ロウソクを1本点けてハッピーバースデーと歌った。僕も両親のバースデーケーキにローソクをつけてお祝いするようなベタな時間を過ごしたいと思った。

義母は明日昼の新幹線で東京へ帰る。2泊3日は、事前に身構えているほど長くはなく、苦痛でもなかった。仲良くなれたか、距離が縮まったかどうかは微妙だ。ただ楽しい時間を過ごせたと思う。